誕 生 秘 話
s30年卒 池田 富男
(明治大学ウエイトリフティング部誕生)
レスリング部室の中で4~5人の部員を前に「神谷選手をキャプテンとしてこれから仲良くやっていただきたい」
との水谷先生の一言から明治大学体育会 ウエイトりフティング部が産声を上げた。
それは昭和27年4月駿河台に桜の花が咲き乱れる頃のことでした。
当初は推薦された入学選手の調整がつかず最終的には神谷選手、西尾選手、 浜野選手4年(大島中教諭)の
夜間稽古の3氏と私ぐらいでした。 練習は地下道場の一部に角材を敷いて行い、その片隅に
一坪程度を間借りしベニヤを張って器具置き兼部室として使用しておりました。
部長には後に「創価学会を斬る」等の著書・マスコミで名を馳せた若かりし藤原弘達先生。
当然監督には水谷光壮先生、相談役にはレスリング部の監督 も兼務されていた水谷先生の計らいで
レスリング部、田口美智留主務と富永 利三郎副主将(ウエイト両者OB)の支援を頂き
一つ一つ相談に乗ってもらいました。田口先輩はレスリング界では理論家であると同時に六大学随一の実力者であり
心優しく本当に面倒を見て頂きました。初代のマネージャーとしてもレスリング部の関口通氏を正式に派遣いただき
磐石の体制を整えていたように思われます。この様に創部に対する水谷先生の 熱の入れようは並々ならものがあり
先生の人脈の広さと強力な手腕により 創部と同時に体育会に加盟しそして当時体育会36団体中Aクラスに治めるなど
普通では考えられない強引な行動だったそうです。何事も組織を作り、立ち上げるのは並大抵の事ではないでしょう、
それも部員の力では到底足元にも及ばなかったことであり、手腕あり、地位あり、強烈な行動力ありそして勿論
経済力のあった水谷先生だからこそなし得た事なのです。
初代主将に任命された神谷氏は高校講師経験後の入学であり、一年生と見えない風格が備わっていたようです。
入学式が一段落した6月頃より、体を鍛える目的で小林(久木原)、杉、梶原、 影安、村尾、長谷、小堀、佐藤、
猪狩、川鍋等入部してきました。10月頃なって大野、伊藤、竹内,山浦、鈴木、小笠原、五十嵐が入部。
次の年には白鳥(オリンピック出場)選手、神谷弟、吉田選手等有望選手が 入部。この年の秋に行われた
秋の全日本重量挙げ選手権大会(大阪)に我がクラブから初参加として白鳥(フエザー級)優勝。西尾(ミドル級)準優勝。
神谷弟(バンタム級)準優勝。 神谷兄(ライト級)第三位。浜野(ライト級)第6位。
そして 私池田(ライト級)10位と健闘し大いに盛り上がり勢いのあるクラブとして注目を浴びた。
この頃法学部学生課吉田先輩の配慮により、明大スポーツの隣 部屋を待望の部室として入室することができました。
達筆だった大野氏手書きによる名札を掲げ、部員としての自覚をかみ締めながら部員一同喜びあったものでした。
これも水谷先生の根回しであった事を後で知りました。
これにより名実ともの新たな船出と言っても過言では無いかと思う。
(全日本学生ウエイトリフティング連盟発足)
水谷先生は、その後大学間にこの競技普及の為に、各大学に声をかけ
全日本学生ウエイトリフティング連盟発足に翻弄した。前記の如く強烈な行動力と手腕により
発足に当たっても目を見張るものがありまた。直ちに組織化を図り初代会長に九州選出の参議院議員の
田原春次先生を据え、初代学連委員長には当部の神谷兄が就く等人材的にも堂々とした 発足であり
明治大学体育会ウエイトリフティング部の名を全国に轟かせたものでした。
尚我がクラブの当時の主務大野は全日本学生選手権大会の金、銀、銅 のメタルを考案し三省堂で制作されたメタルは
第一回大会に於いて授与されることになりました。
(OB会発足)
いつ頃だったか水谷先生が穏やかな口調で「良くここまできたなあ、やれば何だって出来るのだよ。
そろそろOB会をつくらにゃ。」と漏らしたことがあります。これを契機に、在京者を中心に
OB会発足に向け動き出す事になりました。発足までの苦労の中での一番に思い出すのは
温厚な口調の中にも筋が通り説得力のあった石井氏の功績を特記しておかなければならないでしょう。
この様な働きかけの中で小林(久木原)三郎氏が、初代会長を快く引き受けてくれた訳です。
小林氏はコツコツ身を鍛えあまり多くを語らず、それでいて親近感のある方で当時喫茶店を経営されながら
東京観光バスの総務課長の要職に在り、会長要請の折コーヒーを戴きながら
何人かで昔話にふけったことが蘇ってまいります。
(自衛隊体育学校)
自衛隊体育学校は、各種体育部門の強化・育成を目的に埼玉に設立され、全国から優秀な選手を募集したと
記憶している。あるとき5~6人の仕官がジープに乗って地下道場に訪れた。そして、卒業していた神谷弟に
将校用の制服で正装させ「神谷将校に敬礼」と挨拶しそのまま立ち去ったことがある。
その後 自衛隊体育学校重量挙げ部初めての教官として迎えられ、我が部の後輩の指導は勿論な事、
幾多の選手育成に貢献しその任務を果たした。