ク ラ ブ 沿 革
1950~51年レスリング部水谷光壮監督指導の基に、 各種競技の運動選手にウエイトトレーニングの重要性を説き、
重量挙部を創り 明治大学体育会承認クラブとしての ウエイトリフティングとボディービルを兼ねた
健康づくりを主に、積極的な動きで体育会承認の基盤をつくる。
1952年(昭和27年)36番目の体育会承認クラブとなる。 名称 明治大学体育会ウエイトリフティング部。
部長 藤原 弘達教授(政治評論家)。 監督 水谷 光壮助教授(ベルリンオリンピックレスリング日本代表)
初代主将に 富永利三郎以下部員10名の船出でした。
我がクラブは、初代OB飯田定太郎 (顧問OB待遇。日本ウエイトリフティング協会常任理事)始め
今日に到るまでの60数年間、数多くの卒業生OBを世に送り出しています。
職種も様々ですが、当クラブにて培われた4年間、 卒業後 実社会に於いて企業戦士、会社及び個人経営者
芸術分野、そして発明家、教育指導者と夫々歩む道が違いますが
バーベル社会から一般社会人の一員として、 夫々の分野に於いて大いに活躍し社会貢献をしています。
さて、ここで紹介させて頂きますが、
日本のウエイトリフティング競技発祥と 明治大学ウエイトリフティング部との関わり合いについて
一筆ですが下記にてご紹介させたいただきます。
日本ウエイトリフティング協会の歩み 以下抜粋 〈前史〉
江戸時代より差し石や俵差しを受けついできたグループの一人である 飯田一郎の話によると
昭和6年頃 同氏が神田の古本屋で英文のウエイトリフティング書を発見。
それをもとにバーベルを製作したのが わが国最初のバーベルであるという。
当時、東京神田川近くで運搬業を手広く営んでいた飯田一郎の叔父である 飯田徳蔵を中心とした力自慢たちは
力石や米俵の代わりにこのバーベルを使って大いに腕を競いあったのである。
(日本での最初のウエイトリフティング競技の原点ではないかと思う?)
〈沿革〉
昭和23年(1948)憲法発布を祝う記念演技会が神宮競技場で開催。
天皇、皇后両陛下及び各宮殿下の御前演技に
飯田定太郎(明大ウエイト初代OB)飯田徳蔵の子息 飯田勝康(クラブ設立時顧問) 安立勉、安立節、
5選手が演技に参加。井口幸男の説明役で協会史上初の栄誉に浴したのである。
(一人のOBから一言)
我が明治大学ウエイトリフティング部は、日本の重量挙競技の原点と言われている
飯田徳蔵を中心としての力自慢達は力石、米俵の代わりにバーベルを使って大いに競い合った。
そのご子息である飯田定太郎は(明大WL部OB)である。
又日本最初のバーベルを製作したのが徳蔵氏の甥飯田一郎氏であり、この様にして
日本のウエイトリフティング競技発祥と我がクラブ(明治大学ウエイトリフティング部)との関わりが強く
歴史の一遍として今日まで伝えられ、更に学連盟の設立に関しは、初代監督水谷を中心として学生連盟を立ち上げた。
今日のウエイトリフティング競技の普及に貢献し、今日に至る経歴、
そして伝統に誇りを持っている明大WL部OBの一人です。