Meiji University Weightlifting Club

アジア大会日本代表

 

1958年  第3回東京アジア大会開会式

1958年 
第3回東京アジア大会開会式

年代 回数 開催国 クラブシンボル出 場 者(日本代表)
1954年 第2回 マニラ B 白鳥 博義620p
1958年 第3回 東京 M 原 善雄(銅メダル)360kg
1962年 第4回 ジャカルタ B 福田弘 M 山崎弘 LH 継岡正章 (国際wL連盟勧告により各国選手試合辞退)
1966年 第5回 バンコク L木村岳夫(銀メダル)395kg MH継岡正章(銀メダル)437.5kg
1974年 第7回 テヘラン LH藤代充彦(金メダル)315kg
1978年 第8回 シドニー 75kg級 角南 保(銅メダル)302.5k
1982年 第9回 バンコク s41卒 福田弘監督
1998年 ニューデリー 鈴木和美(銅メダル獲得)
ドバイ 平岡 勇輝 s38卒 継岡正章監督

第7回アジア大会テヘラン   金メダル

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                                         s47年卒 藤代 充彦

第7回アジア競技大会は、ミュヘンオリンピックの爆破テロの影響を受けて、厳重な警戒の中開催された。

勿論、場外での行進も無く競技場の中に整列し、前進のみの行進であった。

当初、強敵は中国、韓国の選手との事であったが、いざ蓋を開けてみると地元イランの Poordjamが相手であった。

Poordjam スナッチ 130㎏成功 135㎏失敗 135㎏成功

私(藤代)  スナッチ 135㎏成功 140㎏成功 145㎏失敗

Poordjam ジャーク 165㎏成功 170㎏失敗 170㎏成功  T300㎏

私(藤代)  ジャーク 170㎏失敗 170㎏成功 175㎏成功  T315㎏

楽勝のイメージであるが、実は主審がイランの役員で第一試技を「ニータッチ」の反則と判定、第二試技も同様に反則となった。

しかし、当時の監督林氏(後に専務理事、会長)が猛抗議結果第二試技をやり直し成功、第三試技成功となった。

(世にも珍しい世界記録への挑戦のない第四試技目の成立であった。)かくして、バンタム級安藤謙吉、フエザー級平井一正、に次いで

3人目の完全優勝(スナッチ、ジャーク、トータルの金メタル)の誕生となった。

その日は、祝勝会を開くべく町でスイカを買い、選手村へ帰ろうと歩いていると街の人達が私を指さし「変だね、変だわね」と叫んでいた。

私も。。 「変だわね」と思った。(後で聞いたらペルシャ語でスイカのことは「ヘンダワネ」と言うそうだ。)

 

 

 【 アジア大会こぼれ話 】

第8回バンコク大会まで続いた日本のナンバーワン時代

 

  日本は第1回大会以来、78年の第8回バンコク大会まで、アジア大会における金メダル獲得ナンバーワンで

  他国の追随を許さなかった。ちなみに、第1回ニューデリー大会で日本が手にしたメダルは6競技57種目中

  金25、銀21、銅15。 また次の第2回マニラ大会では8競技77種目中、金38、銀36、銅24。

  日本があまりにもメダルを獲得した為に第3回東京大会からは、陸上競技、水泳などの 個人種目は

  従来の1ヵ国三人から二人に制限された。 それにもかかわらず日本はメダルを取り続け、78年バンコク大会まで

  アジアのナンバーワンとして君臨した。 その日本が、ナンバーワンの地位を中国に譲り渡すのは

  82年第9回ニューデリー大会のとき、中国が国際舞台に復帰したのは、73年11月AGFが「中国招請、台湾追放」を

  決定してからだが この決定を受けて中国は74年の第7回テヘラン大会に姿を見せた。

  久しぶりに国際スポーツ界に復帰した当時の中国は「友好第一、競技第二」をスローガンに掲げており、

  日本の金75、銀49、銅51に対して金33、銀45、銅28のメダルを獲得。

   さらに次の第8回バンコク大会では日本の金70、銀59、銅49に対して、金51、銀54、銅46のメダルをものにし

  日本に肉薄していた、そして第9回大会では日本の金57、銀52、銅44に対し、中国は金61、銀51、銅41となり

  金メダルにおいて日本を逆転した。

   この大会以後、日本はナンバーワンを中国に譲り渡しており、ナンバーツーの座を韓国と競い合っているのが現状である。

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